読者様には、脳裏に数枚の記憶がふと鮮明に描き出される瞬間というのはありますか?私は時々ぼんやりと正教会聖歌やジャズ、クラシック、90年代の日本のポップスを聴いている時にそういったことがあります。ほとんどジャンルは関係なさそうですね。
1枚目の記憶は、亡き親友のお屋敷の隣に住んでいたのを引き払った数日後、そのボロ屋に黙って入り込み、生まれてからその時までの時間を過ごしたその景色を眺めて帰った時の記憶です。確か、平日の午後でした。こたつ兼テーブルも新居に持って行ってしまい、そこは空間になっていて、しかしカーペットはそのまま。棚の中も空で、そして奥に入れば私が寝起きしていた部屋があり、不要になった家具はそのままでした。そちらの部屋は雨戸を閉めていましたが外からの光がもっと奥の部屋から照っていて、冷蔵庫の中もそのままだったのでジュースを飲み、まだ閉めていなかったらしい水道を開けてみたりして、自分の空間だった場所を観察してから親のいる店に戻ったのです。親はこのことを一切知りませんでした。いつも座っていた場所が自分のものでなくなってからそこに勝手に入るというのは、なかなかない経験です。その数ヶ月後、その家は取り壊され、新しい家が建って他の人が住んでいました。私の作った空白は、すぐに他の人が埋めていくのです。よいことですが、親友とその祖父母にとっては空白はそのままだったのを覚えています。彼女たちは、引っ込み思案だったというか、まさに内弁慶だったのです。おばあさまは泣いていました。
2枚目の記憶は、それよりもずっと前です。1枚目の記憶より前、私の家ではうさぎを飼っていました。小さな私がこたつで横になると、そのからだの横にできた隙間に頭から入って、くるっと回って頭を外に出して一緒に横になるのです。もちろんそこにいたのは1匹ではなく3匹ほどでしたから、彼らは交代で私のそばにいました。白と、茶と、黒と、寿命が短いのであっというまにいなくなっていました。
3枚目の記憶は、中学生の時の記憶です。通学路の途中に風変わりな建物があり、それは2階部分の壁に扉があるというものでした。一体あれにはどういう意図があったのでしょう。幼い私たちは、きっと中から開けると昼間でも夜が見えるのではないか、どこかに繋がっているのではないかと期待してお喋りをしていました。あの不思議な建物はもうありません。夢か何かだったのかもしれません。
小中学生の時の友人たちは散り散りになり、ある人とは連絡が一切取れません。かといって、大人になってからの友人たちとは連絡が取れていますが会うことが叶いません。連絡が途切れてしまったあの子たちは、私の幻想か何かだったように感じます。