稀に、言語趣味者が「ハイソ(High society: 上流社会)的」と言われたりなんかしていてその陰の部分をほかの趣味の方にお披露目される機会がないのだと長いことを感じてきました。確かにロシア語に触れなければバレエとかクラシック音楽とか、そういうのがずるずる~と出てくるがために深く探らなくてはいけないことを感じなかったわけですが、順を追って書いてみます。
私の母方は、いわゆる炭鉱の街に暮らす家族だったそうです。一番上の兄が北海道大学に進み、故郷の炭鉱にかかわる研究を求めて国費留学生としてドイツに渡りました。が、その当時末の妹であった私の母はかなり幼く、ドイツというものや大学というものに恨みを感じてそのまま大人になり、関東で私を生み育てました。私からすると、「炭鉱か、ん~エネルギーそのものだし、必要なものを捕まえに行ったのだな」という認識でした。私は麗澤大学でまず英語を専攻、そして敢えてドイツ語を第二外国語でやりました。母の一番上の兄、私のおじから電話がかかってきた時、私はためらわずドイツ語で少し話しました。それから母に替わったのです。…母はこの時、ようやく自分の兄を許したようでした。気持ちはわからなくもないのです、幼い自分を置いて海外に行ってしまい、老親の方を振り返らずにいた兄を憎んでいたことでしょう。
父方では、私が生まれる前に生まれた女子というのが上の代にまでさかのぼり、父の大叔母という人がいたようです。彼女はアメリカに渡り結婚し、日本には戻りませんでした。大学時代に確認したところによると、その大叔母の子孫は確かにその地域の教会に名前が残っているとのお返事をいただいたことがあります。父はこの大叔母を頼ってアメリカに行くか、または関東で店を構えるかで悩んだ時期があったとのことでしたから「…大叔母さんやそのお子さんとコンタクト取る?」と父親としばらくこんこんと話しました。相当悩んだ挙句、父が終戦後の広島市で出会っていつも一緒にいて基地の中のおうちの中にも行かせてくれたアメリカ兵(黒人男性)のことと一緒に、「彼らは彼らで、きっとうまくいっているはずだ。やめておこう」と決めました。
自分の使っている言語が人と人を繋ぐものであってほしい、というのはそんな大げさなものではなく、私の場合は自分の家庭の中にすらあった何気ない課題でした。