福祉を受けている女性が助産制度によって複数回妊娠出産することについて嫌悪するツイートを見ましたが、それを言えるほど私たちの世代は結婚を継続して子どもを産んでいるか考え込んでしまいました。その人が私たちの分を産んでいるのではないかと感じる面があります。妊娠中ただ何もせず耐えて、突然救急車で運ばれていったりご自宅で出産していづれかの状況に陥る妊婦さんよりはご本人の現実を見て対処しているような気がするんですよね。そして十分なお金持ちならば、その土地をあっという間に去っていくかもしれないけれど、そうでないご家族がいるというのはその地域社会の存続に意義を作っている可能性があるかとも。本人やその子の生命がかかっているので他人からの評価でどうこう、というのは非常に的外れな気がします。自分の生活のために子どもを諦める時代はありましたが、それを今やるのが正しいと言い切れるほど、誰も子どもを産み育てたがらないんです。大変ですからね。ふと独りにしたらベランダから自ら落ちる生き物を、一生懸命守るというのは確かに大変です。
「もうこの地域には15歳以下がいないので、災害が起きても復興はしません。他の地域にお引越ししましょう」というのがここ5年くらいで見えてくると思います。なりふり構っていられなくなってからではたくさんの人の意識は変えられないでしょうが、50歳代の人口の1/2から1/3しかいない子ども人口のグラフを見ると希望が薄いですね。どんなにキレイなことを言っていても、実行した人が強いと私は思います。
また、「お金のある人が教育を受けて、教育の必要のある職業に就く」というのも何だかひどくミスマッチで、完全にすれ違ってしまっています。今や、ハローワーク求人に教員の募集が載っています。そんなに必死になって働かなくてもいい、いいえ、税金が高くなるから働くなと子どもに言うような家庭の子がそんな職業に就いてくれると思っていたら大間違いです。キツかったら辞めればいいや、という人々に、あまりの重責をかけたら逃げてしまうのは当然です。何しろ、彼らは自分たちの資産を守ることを仕事にしているんです。教育というのは、働かなくてはいけない層にこそ届けなければ、ただの高級なアクセサリーとなって、本来の輝きを失います。教育は玩具じゃないんですから。社会から隔絶されるタイプの富裕層にもそれなりの輝きがあるでしょうけれども。
そうですね、会社役員といった人々は若い人を採用したがりますが、これも社会には大きな負債です。自分と同じ世代の、機会に恵まれなかった人々の存在を無視して、自分の会社の資産を守ることを仕事にしているからです。しかし、いくつかの理由で若い世代の人口は先細りしています。一体いくつの会社が労働者の奪い合いに勝てるのでしょうか。勝負に勝っても、自分自身には負けている状態とはいえるでしょう、なぜならお客が少なくても成り立つような職業は、世の中には存在しないからです。
ここで外国人をたくさん入れればよいと考える人もいますが、さて、2002年に日本の大学を卒業した私の元彼でさえも日本は先細りすると考えて帰国しました。彼はお父様に続いて日本に留学するくらいの家庭の人です。また、同窓の何人かの台湾人もインドネシアやベトナムといった南アジアで働いています。…彼らが憧れたのは1980年代から1990年代にかけて訪れた鮮やかな時代の日本であって、凋落ムード溢れる現在の日本ではありません。例えば、自由のない、人権意識の低い国々からは喜んで日本に来る方々もいることでしょう。しかし、彼らであってもパスポートや在留資格認定証明書などの書類に正しくお金をかけるだけの十分な賃金がなければ、いつかは不法滞在となっていくのです。外国人には、何もなくても追い出されない日本人より賃金を十分に支払う必要があります。すべてが合法であってほしいならば、当然ですね。
今日はあれこれ考えてみました。退屈な話ですね。